はじめ49歳 母の葬儀 祖父の葬儀 祖母の葬儀
公開日:2025-06-30 00:00
目次
■ 母の遺産分割協議は5秒でおわった
「母が亡くなったのは僕が37歳になってすぐの元旦の夜。12月27日の深夜0時過ぎ、日付が変わって僕の誕生日になって間もなく携帯が鳴ったんだ。友達からのお祝いの連絡かと思ったら、表示されているのは母の名前だった。その頃、何年も母と電話なんてしていなかったから、何だろう?と思って電話に出たら、掛けてきているのは知らない方で、倒れている母を発見してくれた方だった。」
今回の取材対象は、筆者の夫であるはじめさんです。
筆者とはじめさんは結婚11年目。
はじめさんと出会う1年弱前に亡くなったお母様と、筆者はお会いしたことがありません。
はじめさんの母親は、脳アミロイド血管症で、頭の血管がどんどん脆くなってしまい、手の施しようがない状態でした。
はじめさんの誕生日に病院へ運ばれ、大晦日まで寝たきりとなり、元旦の夜、満57歳という若さで亡くなりました。
翌日には葬儀の打合せ、各段取りと毎日弔問に訪れる方の対応を淡々と粛々と執り行ったと振り返ります。
父親が希望したのは、祭壇の花を高価なものにしてほしいということだけだったそう。
「お墓のことも僕一人で決めて、父には事後報告(笑)。四十九日に間に合わせたくて調べていたら今のお墓になったの。サンプルの見本墓があって、それだと名前掘るだけでよくて四十九日に間に合うし、多少安かったんだ。」
遺産の分け方についても「お前が全部相続しろ。」「それでいいの?」「それでいいよ。」と5秒で終わったと。
■ 母親の遺産 母への想い
母親の遺産の確定作業は四十九日までに終了し、父との遺産分割協議書に署名押印。
はじめさんの知らない不動産の所有が見つかるなどあったものの、相続税申告の必要もなく、スムーズに準確定申告までを完了したとのこと。
高校生まで暮らした実家は、新盆が終わるとともに解体。
改修して住もうかとも考えたけれど、大人になってからの家族関係にあまり良い思い出が無く、また改修工事に想定以上の費用が掛かることもあり、解体して駐車場にしたと。
「母は奔放な人だったから、それで他からいろいろ言われ悩まされたこともあった。だから母が亡くなったことで少し解放されたような思いもあったかな。母と距離を置いてしまっていたから、母を亡くした今は、もっと向き合って話をしておけばよかったと思う。」
と、母親との関係性について少しの後悔を口にしました。
■ 夫婦それぞれの供養のかたち
結婚以来、筆者もはじめさんとともに、お彼岸とお盆と命日である元旦には欠かさず墓参りをしています。
お盆の迎え火・送り火も提灯に蝋燭を立て火をつけます。
ある年のお盆は、筆者が一人で送り火をしなくてはならなくなり、車を運転しながら左手で提灯を持ってみました。
ふと見ると、私の持つ提灯が車内で燃えている🔥ではないですか。
慌てて右手に提灯を持ちかえて、車窓の外へ振り回しながら蛇行運転するという、なんとも危ない経験をしてしまいました。
「お墓に行かなくても心の中で手をあわせて想えばいいのよ」という教えでしたので、墓参りという習慣に戸惑いつつ、日頃の感謝をご先祖様へ伝える時間としています。
送り火の提灯を燃やしたことはしっかり懺悔いたしました(笑)。
■ 創業家の孫として
母親の死より遡ること約4年前、はじめさん32歳の時に母方の祖父が83歳で亡くなっています。
当時、母方の家業(建設業)の会社に勤務していたはじめさん。
通夜・密葬・本葬と合わせて約2,800人が弔問に訪れた葬儀についても細かな段取りを行っていました。
24歳で入社、26歳で支店の営業課長、27歳で本社の営業部長と、後継者候補としての立場と意識を確たるものとしていく中で、バブル崩壊の影響から建設業にも不況の波が押し寄せ経営の危機に。
経営再建計画の中で、メインバンクからの巨額の債務免除など支援を受けることとなりました。
経営者であった祖父は引責辞任。
会社の資産や個人資産も銀行に提供せざるを得ない状況であり、はじめさんも人事制度改革など社内変革の中で、部長職から平社員への降格となりました。
その後は会社に残る唯一の創業家として会社へ貢献することが使命と思っていたとのこと。
■「赤城山の見えるところで悪いことをするな」
そのなかで、言えることと言えないこととあるけど、、、と言って、言えないことに分類したものの一つが「赤城山の見えるところで悪いことをするな」というもの。
「まあ、これは言っても大丈夫か(笑)」と撤回されたので掲載いたします。
「裾野は長し赤城山」と上毛かるたにも詠まれる赤城山。
関東平野を見渡す雄大でゆるやかな稜線は群馬県のシンボル的な存在です。
筆者が「関西だったら悪いことしてもいいのかしら?」と問うと「うーん、そうかもね(笑)」とはじめさん。
建設業の社長としてウラもオモテもいろいろな方との付き合いがある人だったと語ります。
清濁併せ飲む懐の深さと、面倒見の良さを思い知らされたという、祖父とグレーゾーンの皆様との楽しいお話しはまたの機会に(笑)。
■ 祖母の旅立ち
豪快な経営者でありながら家のことは祖母に依存し、自宅の鍵すら持たなかったという祖父。
その祖父を支え続けた祖母も今年3月に95歳で亡くなりました。
危篤の連絡を受け、筆者もはじめさんと共に病室に駆けつけました。
親族の皆さんも集まり、代わる代わる祖母に声をかけます。
「数時間前まで元気に話しをしていたっていうのよ。」「こんなに急だとはね。」という会話が繰り返される中で、すでにベッドサイドモニタの心拍は30を切り、命のカウントダウンをされているような悲しい数値を見つめていました。
ですがそれ以上に心苦しい思いで病室の張りつめた空気を感じていたのです。
祖母が息を引き取った後、病院のラウンジには強烈な朝日が差込み、その活力みなぎる朝のエネルギーに諸行無常を感じました。
そして神々しく照らされたラウンジに、似つかわしくない怒号が響くのです。
「おまえとは縁を切ったんだからな、葬儀にも参列させないから!」叔父から叔母へ向けての言葉です。
その言葉通り、通夜告別式の親族代表席に叔母一家の席はありませんでした。
■ 争族に対するはじめさんの役割と縁ディングノート
自らを「喪主代行」と揶揄するように、今回も葬儀社への連絡から各種手配、供花の並び順までお見事で、こういう仕事の方がいてくれるとこれからの時代は安心だなぁなどと、死後事務サポート業への業務拡大を思い描いてしまいました。
どうしてこのような親族関係になってしまったのだろうか、こうならない為に何をすればよかったのかと、声を震わせます。
調停に向けての各種根拠を収集しながら、同時にスタートしたのが「縁ディングノートプランナー」講師となるための学びです。
法的効力を有する「遺言」とも異なる「縁ディングノート」には、家族の縁を繋ぎ直す役割があります。
筆者は今からでも遅くないと思っています。
祖母に想いを書き残してもらうことはもうできませんが、叔父叔母については、「縁ディングノート」を書くことで、お互いがお互いの人生の一部であったことを思い出すことが出来るのではないかと思います。
この際、調停の場でエンディングノートを書く時間を採用してみてほしい!なんて。
争族という展開もドラマチックな人生経験かもしれません。
しかし故人は皆、遺された家族が仲良く幸せに生きることを願っているのではないでしょうか。
その心からの想いを伝えるすべがあるということを、これからも伝え続けていきます。
はじめさんもこの争族の記録を細部にわたり残し、時が来たら公開したいといいます。
それらをどのようなタイミングでお知らせできるかはわかりませんが、筆者も取材を続けます。
【筆者プロフィール】
鈴木 美志乃(すずき よしの)

- ワクワクライフプランナー。
- お客様の人生に寄り添いワクワクの未来を語らう和装FP。
- 相続と日本文化の継承をテーマにコラムを書いています。
- あなたの人生と相続についての想いを聞かせてください。
- 《保有資格》
- 相続診断士
- 笑顔相続道正会員
- 縁ディングノートプランナー
- 2級ファイナンシャルプランニング技能士・AFP
- 【筆者へのお問い合わせ先】
- 株式会社Finlife 東京支社 前橋サテライトオフィス
- 群馬県前橋市千代田町4-6-5
- E-mail:y.suzuki@jinsei-mikata.com